昭和四十七年三月十二日 朝の御理解
X御理解第八十六節 「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものができぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬというが、女がようなければ家がもてぬ」
世界の田地と、これは家だけではない、そういう世界の田地を肥やすということはどういうことであろうかと、女賢うて、牛売りそこなうと言ったようなことがありますね。
男が居っても男にはもの言わせん、嫁さんが出て来てから、男の世界にまで出て来てから、口が出すというわけです。折角の商いがありよっても、それで壊してしまうという意味なんでしょうね。
女があまり賢すぎると、牛売りそこのうのだと。だから女は世界の田地ということは賢なければならんというわけではないですね。むしろ黙って祈っておる。いつも主人の陰にあって、いつもその成り行きを祈っておる、願っておる、そういう生き方、そういう意味だと思いますね。
そこでその黙っておくとか、祈っておくということが信心になるわけですけども、成り行き、自然との対決と言うような意味のことをよく御理解に頂きました。自然との対決、信心生活、お道の信心の生き方、いわゆる真の信心の頂き方、すすめ方、それは成り行きを大切にするということなんですけど、その成り行きを大切にするということは、自然に起きてくる様々な事柄との、ある意味では対決となのだ。
だからその対決の場においてです、私どもが負けておってはならないということですけど、負けておってはならないということは、ならどうゆうことかというと、勿論負けるは勝という意味もありましょう。又は様々な堪えられないような問題も起きてくる。堪えられないような、それこそ歯を食いしばらにゃおられないような問題にも直面する。
だからそういう問題に対決しながら勝っていくことは、それを辛抱しぬいて行くことだと思うです。だからそこでは負けたような形に見えるわけです、けれども、その後にあー言わんで良かったと、例えば言うものであるとするならば、勝ったわけですね。勝っているというのは例えばそこで言い負かしていくと言ったようなものではない、又これは対人関係だけではない、どんな問題の場合でもそうである。いろんな事柄の場合でも、田地を
肥やすということ、しかも私どもは世界の田地たらなければならない。世界の田地を肥やしたい。
最近私がよく申します、公害問題、世界のどこの国でも、公害ということには頭を悩ませておる。それに対する対処策というか、いろいろな問題にまた事実お互いが公害に大変な迷惑を被っておるわけである。そこで何とかしなければということになって、公害問題に取り組んでいるのですけども、これは私は世界の田地であるところの私どもお道の信奉者、とりわけ私は合楽で信心の稽古をしとられる皆さんが、言うなら世界の平和を願われる。
その内容としてです、例えば公害の問題のことでも願わずには居られませんから、願っておいでられることと思いますけれども、世界中の者が、公害問題にやあやあ言うておるだけなくてです、私は静かにここまでの公害を起きてくる程しの世界が進展を遂げてきた、発展を遂げてきたことに対するお礼又は人間の知恵力だけに依存して参りました、人間の思い上り、自然を征服するといったような、いわゆる自然を冒涜する、神様を冒涜するようなことを平気で使うという事をば、神様を征服するというような意味にもなるのです。
自然の征服、人々の知恵力で出来ないことはないのだと。ところが、その人間の力にも終止符を打たなければならないような時代の表れが公害なのです。これは人間の目前が知恵力だけでやって行きよると、これは人間が人間の自ら首を絞めるような結果になるぞと気付いてきた。これはもうひとえに人間の思い上りからだとこう思う。
そこで、世界の田地の場を承らせて頂く、御道の信奉者だけぐらいはせめて、そういうところのお詫びをなさらなければいけんのじゃないかと、又はここまで来たことに対するおかげ、ここに気付かせて頂いたということの御礼を申し上げなければいけんのではないか。世界の田地としての役前というか、大きく世界の情勢の思うてみる時に、そげなものを感じる。
そこで詫びておるだけでよかろうはずがありません。済みません済みませんと言うだけでもいけない。只有難うございますと只お礼を言うとるだけでもいけません。いわゆる田地を肥やしていくということ、世界の家老を勤めさせて頂くというような気が、私どもに求められておるような気がする。これは天下国家と社会という大きなことを言わなくても、そのためにはまず私どもが生神金光様が仰るような、自分の家の前を清めるとか掃くとかというけれども、その清め掃かせて頂くということがです、もう世界の一部が清め掃かれておるのだという気持ちで掃けというわけであります。
言うならば、自分の所の表が綺麗になれば良いというのでなくて、もうすでに世界の一部が清められておるのだという心でおかげを頂け。そういう人が沢山出来て来るところに、世界が清まっていくということになる。同時にそれが清まるだけでなくて、肥えて行かなければならん。
昨日午後の奉仕をしております時に、少年少女会の方達が次々と昨日は合宿ですから参
拝して参ります、一人一人ここでお取次頂いて、本当に合楽で信心の稽古をしておる双葉の人達だなと、この双葉がいよいよ立派な大きな木に育った時に、本当に楽しみと思われるような感じです。一人一人が真剣にお取次頂いての合楽でございます。
この人達の中から次の合楽を担って行く、指導していく人達が生まれてくるであろうと思われてくる程に、ある意味では、子供ながらも徹底した信心をさせて頂いているという感じ、実に有難い、御祈念なんかでも実に真剣です。
中に佐田さんところの長女の典子さんがお取次を願うて、この頃少し鼻が悪い、まあ医者にいったり蓄膿症と言われる、だろうとこう思はれる、それで何かと不自由する。それは神様のご都合として頂いておるけれどもというわけである、やはり勉強にもやはり人にも迷惑をかけるいう感じもあるから、まあそのことの悩みというかね、それをお取次頂かれた。別に医者にかかって養生しようとも思いません。神様の御都合だから、まあ言うならば成り行きを大事にして、その成り行きとの対決の場にあるわけです。そのところをいろいろお取次を願っております。
丁度私はその時にある本を読ませて頂いとりましたら、こういう詠が出ておりましたから、これはよい本だなと思いましてね、詠だなと思うて、ここへ書いとるところへ来ましたから、この詠を書いてやった。こういう詠なんです。
[極楽の門番なりとしてみたさ、塵も掃き寄せ草取りもして]というのであります。
[極楽の門番なりとしてみたさ、塵も掃き寄せ草取りもして]というのである。お互い子供らからも信心の稽古をもうしっかりやっておる、その基礎になるところの成り行きを大事にして行くということを、実際の自分の体の上に起きてくる、そういう問題と取り組んでおる。そして早く楽なりたい早く楽になりたいというて、薬を頂こうとか、医者にかかろうとは思いません、神様のご都合だろうと思いますからとこういうのである。それで又いろいろね体験を頂いておるというのである。ことをその前の日ですが、お母さんがお届けしてありました。その中から信心を頂いていきよる。
今日の御理解からいうと、それこそ世界の田地とならなければならない、女は家の家老とおっしゃるから、良い家老にもならなければならない、それにはそういう言葉の中から、しっかり良い信心を身に付けていこうと。それで私が申しました。成程鼻の通りが悪なったり、鼻が臭かしたり、臭いのする鼻が出ると、そういう時には自分の心の中の、言わば塵も掃き寄せ草取りもしてという、そういう心の中の、五体の中の汚いものが、今こそお取払いを頂いておるのだ。自分の心の中を清められておるのだ、体の中を清めて頂いておるのだと、そういう気持ちにならせて頂くと良いねというて話したことでした。
それはそのまま極楽の門番どころではない、本当に極楽行きの稽古である。いわゆる喜びの世界これはそのまま極楽でしょう。それが段々生長させて頂いて、家庭の人となり、女として又家内として又は母親としてというおかげを頂いて、生長して参りましたら、それこそ良い家の家老になることだろうと思います。そういう一つの成り行きを尊ばしてもらう、大事にしてもらう、成り行きを大事にするということは、只御事柄としてと最近は
言われておる、それを合掌して受けていくと言えば優しいようにあるけれども、やはりその場での対決なのだ。
それこそお医者さんに行って、ちょっと診てもろうたら、ストストするようになるかもしれん、楽に早くなれるかもしらん、けどそこんところを言わば成り行きとして大事に頂いて行こうとしておる。その姿勢の人に対して、これはまたそれが事実なのですから、それこそこれは五体から大小便をはじめとしてです、咳一つでも、鼻汁一つでも、いわゆる神様からお取払い頂いておるのだ。言うなら体の悪血・悪毒というものを取払うて頂いているのだという観念なのだ。こういう風にあるのはどこにその原因があるのだろうかというような観念ではなくて、神様から清められておるのだ、神様からお取払い頂いておるのだという観念。だから鼻一つかませて頂くのでも御礼を申し上げねばいけないのだというわけです。
私は、金光様の御信心頂いとっても、それは理屈を言えば、それは理屈を言うた方が合理的にありますけれども、金光様の御信心はどこまでも一つその事の中から神様の神意も知りたし、信心もわかりたしと言うのでなからなければ、そういう本当におかげの頂ける本番に直面した時に、すぐ楽な方へ楽な方へといったら、いつまでたっても本当なことはわからないです。
そういう例えば信心の鍛えというものがです、まだ若いながらもさせて頂いておる、言うなら習慣というかね、そういうものを本当に自分の観念の中に叩き込んでいく行き方を身に付けていっておるということは、有難い尊いことだとこう思います。
さあもうどうかあると言えば、すぐさあ頭が痛ければノーシンを服みなさい、腹が痛ければ何々薬と言ったようなね、そういうことでは本当に幸せになれないです。それは本当いうたら間違いなのですから。いわゆる医薬とか医学万能そういう時代はもうしまえたというわけなんです。そして自然の中からです、神様が育てねばおかん、楽にせねばおかんという、そういうおかげに目覚めさせて、それを私どもの体の上にも、家の上にも表して行こう、それを世界国家の上まで広めていこうというのです。私は世界の田地を綺麗にして行くことであり、又肥やして行くことであるというふうに思うのです。
頭が痛いからすぐノーシンといったようなことでは、世界の田地はいつまでたっても豊かにはなりません、綺麗にはなりません。むしろ言うならば薬毒に侵された結果は、いわゆるそれは公害とまで毒されて言わなければならない結果になって参ります。いわゆる化学、科学万能とか医学万能という時代からです、私どもが自然に帰らせて頂くことはです、その小さい一つ一つの事柄の中から、御事柄として、成り行きとしてそれを大切にしていくということと同時に、大切にして行く内容というのは、それと対決していくことなのだ。
言うならば、典子さんの場合は、鼻の具合が悪いという、そのことと一生懸命対立して、お取次頂いて、そこからいよいよ御神意を深くわからせて頂いて、体験を積んで行こうと、いわゆる田地を肥やしていこうとする働き、もうすでに[極楽の門番なりとしてみた
さ]という極楽の周辺に近づかせて頂いておる感じが致します。それには今からその草取りもしとかなけりゃならない。言うなら、塵も掃き寄せとかなきゃならないという働きがです、出来るチャンスに恵まれておりながらでも、そこのところをおろそかにするところから、只そういう楽になったというだけではいけんのです。そうした人間の浅い学問から生まれてくる薬なんかというものはです、尊いようであって尊いものではないのです。
もうその証拠には、どんなに良い薬でも、この病気にはこの薬があれば良いというような、薬が出来たに致しましても、もう次にはもう薬では手に負えない新しい病気が出来てくる。新種の薬が出来ると、もう次には新種の病薬が出来ておる。いかに自然を征服するというても、出来ない証拠を、そこを一つ気付かせて貰って、本気で田地を肥やして行く働きになってくる。今日はここのところは、女は世界の田地とありますけど、今日頂いておりますと、女ということだけではないですね。
例えば御道の信奉者だけでも世界の田地にならなければならん。いや合楽の信奉者だけでも、本気で世界の例えば公害の問題についてでも、人間の思い上りの結果が、このような結果になっておるのだと気付かせて頂いたら、御詫び係にならなけりゃならない、御礼係にならなければならない。そして、その御詫びの印に、公害なり公害という問題に直面致しましても、そのことの内容から、いよいよ自分の心を肥やしていくことの働きになるようなおかげを頂かしてもらわねばならん。
これは例えば土地を肥やすというても、只良いものがどんどん生まれてくる、さらに後になって、何も肥料をやらなかったり肥をやらなかったりすれば土地はますます痩せるばかりでございますけど、ですから絶えず田地に、土地には肥料を施さねばならない。また肥料になるものを施して行かねばならんものに、私どもの心からも同じこと、それが起きてくる問題との対決。
これは対人関係の場合は本当に対決のに相応しい、本当に対決しとらねば負けてしまう。それこそ後で、ああいうことを言わねば良かったという時には、もう対決に負けた場合です、言わずに祈って行く、黙って祈ったり、お詫びをしたり、願ったりして行くとような生き方、いよいよ良い家老を目指さして頂いて、世界の家老をお道の信心をして頂いておるものが、田地を目指さして頂いて、いよいよ有難い、よい、住みよい世界にして行かねばならない。家老が良くなければ城が保てんというように、家老が良いとその城全体が住みよい城下であるわけで、家において然り。女が良うないと家が治まらない、女が良いと家の中が治まって行く。
女は家の家老じゃ、治まっていくことが家の中が段々治まって行くことにも通づると思います。そこで私は極楽の門番なりとしてみたさ、心を起こさなければいけないと思います。そこから塵も掃き寄せ草取りもしてということになりますという修行に入って行くことが出来る、しかも楽しゅう入って行くことが出来るように思いますね。
どうぞ。